ネパールNGOスタッフ学校設立に向けて

2010年4月27日火曜日

教育の原点

ここから学校に通う女の子は無事飛び級試験に合格し、3年生からスタートする事になった。そして僕の現地理事就任も本日理事会の承認を受け、正式にスタートする。

かなりの長文になるが、ここで僕の理想とする教育の原点についてふれておきたい。

地球における生命進化の歴史に見られる基本原則は、弱肉強食・適者生存である。すべての生命は激しい生存競争の中で、より良い子孫を残すことにより進化をしてきた。その中でただ一種、特異な環境適応により圧倒的な繁栄を誇った種がある。人類である。

人間は群れを作りお互いに協力することで、強大な獲物を狩り、様々な困難を克服してきた。道具を作ることで技術を得、より高度な協力をするために言語と文字を生み出した。文字により後世に技術を伝え、また遠方の人々との交流を深める中で、やがて人類は社会と文明を手にする。

現在、我々は音楽や映画を作り、時に自動車を作りビルを建て、様々な文化的活動を行っている。知的所有権という概念が国際社会においても認められ、あたかも自分達だけでその芸術作品や技術を生み出したかのように権利を主張しているが、果たしてそれは正当な主張であろうか?

我々は言語を使って高度な論理的思考を展開する。言語は一朝一夕に出来るものではない。何千年もの歳月をかけ、技術を集積し、感性の表現を練磨し、そして現在に至るのだ。言語・技術・文化は、幾百億もの先人たちが生涯をかけて築き上げた、かけがえの無い遺産なのだ。

その土台があるからこそ我々は高度な論理的思考を為す事ができ、豊かで文化的な生活を送ることが出来る。自分の思考・感性・知性は自分だけのものだと考えている人は多いが、自我とは己一人で作り上げたものでは決してない。先人から受け継いだ、言語・知識・文化等の土台があり、自分を取り巻く多くの人々との有機的な関係を経て、初めて成り立つものである。

それら先人から受け継いだ遺産に、感謝の心を持つこと。その力を宿すことに誇りを持ち正しく使うこと。そして、これからの時代を担う子供たちへと語り伝えていくことは我々の責務である。

人は必ず死ぬ。どれほど巨万の富を稼ごうとも、死んでしまえば無意味となる。子供たちに財産を残しても、相続争いの元になるか、自分で働こうとしない放蕩者に堕落させるだけの結果に終わる事例が極めて多い。地位や名誉を追い求めても、権力に執着し謀略と汚職に手を染めた権力者など教育を受け分別を持つものならば誰も敬いなどしない。

人生とは無意味なのか?そうではないと思いたい。我々自身の魂が、自分だけの想いで在るのでは無い様に、我々の生き様や共に過ごした思い出もまた共に生きた人達に受け継がれてゆくのだと考えられるからである。

「子は親の鏡」という諺がある。年を経るにしたがって両親に為り人が似通ってくる例は極めて多い。父母に大切に育てられたように、今度は我々自身が共に喜び、怒り、哀しみ、そして楽しんだ想い出を愛する子供達の魂の糧として受け渡してゆくことは、我々にとっての喜びであるとともに責務でもある。

魂とは何でしょうか?僕は魂とは知性と感性から成り立っていると考えています。

知性とは何でしょうか?僕は知性とは知識を理解し関連付け応用する力だと思います。知識そのものが少なければ知性も決して大きなものにはなりえず、偏っていればその人の考え方も偏ります。知識を理解せずにただ暗記しただけでは実社会では役に立ちません。

感性って何でしょうか?僕はその人の人生経験から生まれるセンスや美意識の判断基準であり表現力だと思います。どんな服や音楽を好むかはその人がこれまでの人生経験をどのように感じ、そして行動してきたかが反映されます。単調な生活を歩んできた人はどちらかといえば派手で豪華なけれど底の浅い美的感覚を 暗い人生を送ってきた人は地味なものを好む傾向があるような気がします。

僕は、学ぶとは自らの魂を育て、磨くこと。自分が誇れる、なりたい自分に近づくこと。教育とはそのために必要な知識や課題、環境をあたえ、個人が持つ個性や才能を開花させる手伝いをすることではないかと考えるのです。日々の生活で、何を見聞き、何を考え、そしてどのような行動をとるか?日々の積み重ね、一つ一つの行動が己の魂を創ってゆく。その自覚こそが人に革新的な成長をもたらすと考えている。

僕は1日に30回、自分の知らない事、知りたい事をgoogleで検索するよう人に勧めている。1年で1万回、10年で10万回。それだけの回数を調べ、学び続ければ自分の世界観となりたい自分が見えてくる。新聞のようにただ与えられた情報を読むのではダメだ。情報に対する嗅覚を養う事。そしてそれらを貪欲に取り込む事がこれからの時代には必要になる。

紙おむつが普及して、子供の知能の発達が遅くなったという話を聞いたことはありませんか?
昔は育児とは子供に安全で快適な環境を与えてあげることだと思われていた。
しかし、今は子供に色々な刺激を与え、母親を見分けさせ、コミュニケーションを必要とする状況を作り、目で声で全身でコミュニケーションをとること。おいしいものまずいもの、うれしいこと辛いこと怖いこと楽しいこと色々な感情を体験することが必要なのではと考えています。そんな中で自分で工夫すること、考えることをうまく誘導できれば、知能の発達は早くなるのではと考えてます。

なぜネパールに学校を創るのかとよく聞かれますが、それはネパールが差別と貧困そして人々の笑顔と自然や動物達とのふれあいに溢れているからです。

孤児院を作るではなく学園を作るのは、苦難の後、安全と快適な生活を手に入れ、そして勉学と研鑽に励まねば過去の貧困にとらわれる。そんな状況こそが人間は最も努力し、輝くのだと思うからです。過度の競争は煽りません。協力と連携、そして仲間とともにあるという安心感は人を支えます。
人間は保護されればされるほど弱くなります。もちろん子供も。自分でできることは自分でする。それも子供には必要だと思います。

快適で安全な環境が教育に適しているとは考えていません。うれしいこと楽しいことだけでなく、悲しいこと辛いこと、いろんな体験を積み、試練と困難な課題に苦悩することこそが人の魂を成長させ磨くのだというのが僕の考えです。

今の日本人は人生経験偏食症ではないだろうかと僕は考えています。楽しい事、嬉しい事、おいしい物、きれいな物だけを経験しても人は大成しない。辛い事、悲しい事、寂しい事、嫌な事も体験してこそ、人の痛みを理解し、嫌な事にも耐える強さを得、バイタリティーに溢れる人間になれると考えるのです。

これが僕の理想とする教育の原点です。そんな事はできるはずがないと周りの人達は言います。大変な事は分かっている。それでもやるか、あきらめるかだ。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」僕は自分の残りの人生すべてをこの学校創りにかけてみようと思う。それだけの価値のある事だと思うから。そして、子供達と共にある日々はきっと楽しい事でもあると思うから。