ネパールNGOスタッフ学校設立に向けて

2010年4月30日金曜日

ピクニック


所属するNGOが運営する日本語学校生徒のピクニックに同行する事になった。参加者は20名程で20代の若者が中心だった。事務所に所属する2人の通訳はボランティアでこの学校の先生をしているという事だった。カトマンズから30分程度でこのような自然の美しいキャンプ場に来られるとは驚きだった。


普段はあまり働かないイメージのネパール人。こういうイベントの時は見違えるような手際の良さを見せる。瞬く間に料理を作り終え、豪快な食べっぷりを見せてくれた。

食事の後は業務用のスピーカーと音響機器を設置し、音楽に合わせて踊り出す。ネパール人は踊りが本当に好きだ。僕も誘われてるまま、ぎこちないながらも踊ってみた。正直なところ言葉の通じない僕は場違いな感じがしたのだが、こういう交流がある事を理解しておく事も必要なのだろう。

2010年4月28日水曜日

カトマンズ市のゴミ処理問題

市職員及び教育機関関係者とカトマンズ市のゴミ問題に関する会議を行った。ディベロプメント・ファシリテーターを務める理事長の提案で、学生を核としたゴミ処理推進体制の手順とスケジュールを議論する。計画は二段階に分かれており、第一段階では主にゴミの分別と資源化再利用。第二段階で生ゴミをコンポスト(堆肥)としてインバートメントする運動を学生が中心となって広めていこうという計画だった。生ゴミの堆肥化は問題点も多く、先進国でも失敗している例が多い。ネパールで進めるに当たって学生を中心とし、学校を花でいっぱいにする事からはじめ、その後堆肥の有料引き取り等に移行していこうという発想はなかなか的を射ているように思った。

会議には前回蓮を取りに行ったときの職員の一人も参加していた。意外にも彼の提案内容は現実的で、第一段階を今年度の予算が使える7月末までに3つの地区300校程度で実施しその動向と来年度の予算を考慮しその後のスケジュールを立てるという物だった。今回のプロジェクトに関しては、着任したばかりという事もあり、僕はほとんど関与していない。お手並み拝見と行ったところである。立場上、カトマンズに来てからこの町でどのようなゴミ処理が行われているか見てきたが、ゴミの内訳はプラスティックやビニールが多く、再利用できる資源は少ないように感じた。生ゴミ等を減らせるだけでも効果は大きいと思うのだが、今後の動向を見守りたい。

2010年4月27日火曜日

教育の原点

ここから学校に通う女の子は無事飛び級試験に合格し、3年生からスタートする事になった。そして僕の現地理事就任も本日理事会の承認を受け、正式にスタートする。

かなりの長文になるが、ここで僕の理想とする教育の原点についてふれておきたい。

地球における生命進化の歴史に見られる基本原則は、弱肉強食・適者生存である。すべての生命は激しい生存競争の中で、より良い子孫を残すことにより進化をしてきた。その中でただ一種、特異な環境適応により圧倒的な繁栄を誇った種がある。人類である。

人間は群れを作りお互いに協力することで、強大な獲物を狩り、様々な困難を克服してきた。道具を作ることで技術を得、より高度な協力をするために言語と文字を生み出した。文字により後世に技術を伝え、また遠方の人々との交流を深める中で、やがて人類は社会と文明を手にする。

現在、我々は音楽や映画を作り、時に自動車を作りビルを建て、様々な文化的活動を行っている。知的所有権という概念が国際社会においても認められ、あたかも自分達だけでその芸術作品や技術を生み出したかのように権利を主張しているが、果たしてそれは正当な主張であろうか?

我々は言語を使って高度な論理的思考を展開する。言語は一朝一夕に出来るものではない。何千年もの歳月をかけ、技術を集積し、感性の表現を練磨し、そして現在に至るのだ。言語・技術・文化は、幾百億もの先人たちが生涯をかけて築き上げた、かけがえの無い遺産なのだ。

その土台があるからこそ我々は高度な論理的思考を為す事ができ、豊かで文化的な生活を送ることが出来る。自分の思考・感性・知性は自分だけのものだと考えている人は多いが、自我とは己一人で作り上げたものでは決してない。先人から受け継いだ、言語・知識・文化等の土台があり、自分を取り巻く多くの人々との有機的な関係を経て、初めて成り立つものである。

それら先人から受け継いだ遺産に、感謝の心を持つこと。その力を宿すことに誇りを持ち正しく使うこと。そして、これからの時代を担う子供たちへと語り伝えていくことは我々の責務である。

人は必ず死ぬ。どれほど巨万の富を稼ごうとも、死んでしまえば無意味となる。子供たちに財産を残しても、相続争いの元になるか、自分で働こうとしない放蕩者に堕落させるだけの結果に終わる事例が極めて多い。地位や名誉を追い求めても、権力に執着し謀略と汚職に手を染めた権力者など教育を受け分別を持つものならば誰も敬いなどしない。

人生とは無意味なのか?そうではないと思いたい。我々自身の魂が、自分だけの想いで在るのでは無い様に、我々の生き様や共に過ごした思い出もまた共に生きた人達に受け継がれてゆくのだと考えられるからである。

「子は親の鏡」という諺がある。年を経るにしたがって両親に為り人が似通ってくる例は極めて多い。父母に大切に育てられたように、今度は我々自身が共に喜び、怒り、哀しみ、そして楽しんだ想い出を愛する子供達の魂の糧として受け渡してゆくことは、我々にとっての喜びであるとともに責務でもある。

魂とは何でしょうか?僕は魂とは知性と感性から成り立っていると考えています。

知性とは何でしょうか?僕は知性とは知識を理解し関連付け応用する力だと思います。知識そのものが少なければ知性も決して大きなものにはなりえず、偏っていればその人の考え方も偏ります。知識を理解せずにただ暗記しただけでは実社会では役に立ちません。

感性って何でしょうか?僕はその人の人生経験から生まれるセンスや美意識の判断基準であり表現力だと思います。どんな服や音楽を好むかはその人がこれまでの人生経験をどのように感じ、そして行動してきたかが反映されます。単調な生活を歩んできた人はどちらかといえば派手で豪華なけれど底の浅い美的感覚を 暗い人生を送ってきた人は地味なものを好む傾向があるような気がします。

僕は、学ぶとは自らの魂を育て、磨くこと。自分が誇れる、なりたい自分に近づくこと。教育とはそのために必要な知識や課題、環境をあたえ、個人が持つ個性や才能を開花させる手伝いをすることではないかと考えるのです。日々の生活で、何を見聞き、何を考え、そしてどのような行動をとるか?日々の積み重ね、一つ一つの行動が己の魂を創ってゆく。その自覚こそが人に革新的な成長をもたらすと考えている。

僕は1日に30回、自分の知らない事、知りたい事をgoogleで検索するよう人に勧めている。1年で1万回、10年で10万回。それだけの回数を調べ、学び続ければ自分の世界観となりたい自分が見えてくる。新聞のようにただ与えられた情報を読むのではダメだ。情報に対する嗅覚を養う事。そしてそれらを貪欲に取り込む事がこれからの時代には必要になる。

紙おむつが普及して、子供の知能の発達が遅くなったという話を聞いたことはありませんか?
昔は育児とは子供に安全で快適な環境を与えてあげることだと思われていた。
しかし、今は子供に色々な刺激を与え、母親を見分けさせ、コミュニケーションを必要とする状況を作り、目で声で全身でコミュニケーションをとること。おいしいものまずいもの、うれしいこと辛いこと怖いこと楽しいこと色々な感情を体験することが必要なのではと考えています。そんな中で自分で工夫すること、考えることをうまく誘導できれば、知能の発達は早くなるのではと考えてます。

なぜネパールに学校を創るのかとよく聞かれますが、それはネパールが差別と貧困そして人々の笑顔と自然や動物達とのふれあいに溢れているからです。

孤児院を作るではなく学園を作るのは、苦難の後、安全と快適な生活を手に入れ、そして勉学と研鑽に励まねば過去の貧困にとらわれる。そんな状況こそが人間は最も努力し、輝くのだと思うからです。過度の競争は煽りません。協力と連携、そして仲間とともにあるという安心感は人を支えます。
人間は保護されればされるほど弱くなります。もちろん子供も。自分でできることは自分でする。それも子供には必要だと思います。

快適で安全な環境が教育に適しているとは考えていません。うれしいこと楽しいことだけでなく、悲しいこと辛いこと、いろんな体験を積み、試練と困難な課題に苦悩することこそが人の魂を成長させ磨くのだというのが僕の考えです。

今の日本人は人生経験偏食症ではないだろうかと僕は考えています。楽しい事、嬉しい事、おいしい物、きれいな物だけを経験しても人は大成しない。辛い事、悲しい事、寂しい事、嫌な事も体験してこそ、人の痛みを理解し、嫌な事にも耐える強さを得、バイタリティーに溢れる人間になれると考えるのです。

これが僕の理想とする教育の原点です。そんな事はできるはずがないと周りの人達は言います。大変な事は分かっている。それでもやるか、あきらめるかだ。

「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」僕は自分の残りの人生すべてをこの学校創りにかけてみようと思う。それだけの価値のある事だと思うから。そして、子供達と共にある日々はきっと楽しい事でもあると思うから。

2010年4月26日月曜日

初出勤

ネパールの休日は土曜日で、日曜日は普通の出勤日となる。という訳で、今日はネパールでの最初の出勤日となる。昨日はバラジュー庭園に蓮を植えに行っていたのだが、代休などというものは存在しないようだった。
ネパールの事務所は政府要人等を招待する事もあるという話で、日本の事務所と違いそれなりに立派な家だった。あくまで外面だけの話。事務の規定やOA化は・・・・・。ここでは触れない事にしておく。
予算にゆとりのあるよほど体制のしっかりした団体以外、NGOの事務体制はきちんと整備されていないところが多い。

僕は会社を経営していた事もあるので、経理や事務マニュアルの作成、事業計画書作成等、一通りの事はできるのだが、理事長は予算を割いてまでやる事では無いと考えているようだった。ネパールにはネパールにあったやり方があるという事だった。

日本から持ってきた電子機器はほとんど壊れてしまったらしい。電圧が違うのに変圧器をかまさずに使ってしまったりするそうだ。テフロンコーティングのフライパンは固いスポンジで洗うためボロボロ。洗濯機には洗剤を適当にぶち込んで泡まみれにしてしまったらしい。何度注意してもダメらしいのだ。ネパール人恐るべし・・・。

事務所には12歳のかわいい女の子が居た。父親は身体障害者で蒸発。母親は彼女を引き取らずに他の男性と結婚したという事で、父親側の祖父母が今まで彼女を育てていたらしい。その祖父母も年のためこれ以上彼女を育てていく事が困難で、村でも問題になっていたという事だった。彼女は1年しか学校に通っていなかったそうだが、頭の良い子らしいので、明日飛び級の試験を受けるという話だった。
取り敢えずはこの家(事務所?)から学校に通わせるという話で、理事長が養女にする事も検討しているという話だった。孤児を育てていくのは初めての事例なので、大切に見守っていきたいとの事だった。

ネパールではこういう話は少なくない。ネパール全体で4万人の子供達が孤児院に入っており、そのうちの半数はカトマンズにいる。ネパールの孤児院に居る子供達は必ずしも両親が居ない子ばかりではなく、親がいても経済的に育てられない子供も預けられているらしい。僕はまだこの国に来たばかりで、この国の現実を分かっていない。これからは自分自身の目で、この国の現実を確かめていきたい。

2010年4月24日土曜日

タンセンにて

カトマンズにあるバラジュー庭園に植える蓮の地下茎を採取するため、今回はタンセンに訪れたらしい。日本なら造園業者に依頼すればすむことだが、こちらではそれではうまくいかないらしい。何のためにこんな仕事をしているのかは、まだネパールに来たばかりの僕にはよく分かっていないのだが、とりあえず従っておくことにする。理事長はカトマンズ市のディベロプメント・ファシリテーターも兼任しているので、その関連の仕事らしい。朝のチャーを戴いた後、理事長とGさんと私の3人で散歩に出かける。タンセンはなかなかきれいな町だった。信心深いネパール人達は朝から早速寺院へ礼拝に訪れていた。我々もお賽銭?をはらって、額にティカを付けてもらった。

有力者の家に戻ると早速仕事の段取りをきめ、蓮の自生している池に向かう。市の職員は今回、理事長の仕事を手伝いするために休暇を取って同行したという話だが、全然仕事しね~。仕方がないので、現地の農家らしき人も雇って、何とか当初の目的であった100本の地下茎を確保する。すると職員どもは大して仕事をしていた訳でもないのに仕事が終わったと親戚の家に遊びに行く。カトマンズへの帰る途中のホテルでは売春婦をホテルに呼んで騒ぐ乱れっぷりだ。むろん我々は参加していない。

ネパールでは割り勘などはあまりなく、一番偉い人が飲食費等を払う場合が多いらしい。どう見てもタダで飲み食いするためたかりに来たといった感じだ。ここに来るまでの車の中でも、やたら下ネタの話が多く、市の給与では到底住めない家に住み、何人か女を囲っているらしいことも理事長から聞いた。はっきり言って非常に感じが悪かった。ネパールはカースト制度が根強く残るコネ社会で、上級カーストの人間はコネで市の職員にも入ってくる。まだこちらに来たばかりなので、詳しいことは分からないのだが、こういう人間達ともつきあっていかなければネパールをより良く変えていくことはできないらしい。うちのNGOでは経費は寄付金の20%と決まっているので、こんな飲食費は経費で落ちない。すべて理事長の自腹だ。僕は目の前が暗くなってくる気がした。

タンセンの町であった人達は純朴で好感が持てた。外国人はそれほど多くないらしく、通学途中の子供がつたない英語で話しかけてきたりした。定食屋ではお母さんと子供達が、一生懸命仕事をしていた。子ヤギや鶏が放し飼いにされており、のどかで美しい風景が郷愁を感じさせた。僕はこういう人達の力になってあげたいのだ。だが、それは理事長も同じだろう。この日は暗い気分のまま眠りについた。

2010年4月23日金曜日

初めてのネパール

まずはカトマンズ空港内でのトラブルから。
ビサは現地取得の方が安いと言うことで、日本では取得しなかった。到着が1時間程遅れたことから、前の便の旅行者が列をなしており、ビサなし入国審査の窓口が滅茶苦茶に混雑していた。空港に迎えの人が来る場合、日本で取得しておいた方がスムーズに進むかもしれない。僕の場合は航空機の遅れと空港が混雑していたことから、迎えの人を2時間程待たせてしまった。
現地でビサを取得する人は記入フォームが英語なので、事前にフォームをダウンロードし、記入しておいた方が良い。申請フォームが変更されることもあるので、最新情報を自分で検索してください。(写真も必要。)

カトマンズ空港にはNGOの理事長と現地スタッフ(通訳:以降Gさん)が来てくれたのだが、タクシーでホテルに着くなり、パスポートも着替えも持たず、両替すら済ませていないうちに、いきなりタンセンという町に行くことになった。今日中にタンセンまでいきたいので、大急ぎで出発しないといけないらしい。同行者にはカトマンズ市の部長クラスの人も居るらしい。5人乗りの車になんと8人で乗り込む。ネパールではこの位は当たり前らしい。中に入りきらないときは屋根に乗っけて行ったりしている車もよく見かける。

カトマンズに着いて早々、いったい何がどうなっているのだと思いながらも、車の窓から町を眺める。ちょっとゴミゴミしていて埃っぽいが、活気に溢れる町だ。理事長は僕の隣の席で、この国の習慣や文化について色々と説明してくれた。ネパールで18年もNGO活動をしているだけあって、さすがに詳しい。

カトマンズ市内の人力車は観光客には高い料金をふっかけているが、地元の人は安い料金で乗っていると言うこと。トリブヴァンハイウェイのハイウェイは国道の意味。途中で事故って谷底に落ちかけている車を何台か見かける。ネパールの道路は深夜には飲酒運転が多いことから本当に危険で、地元の人達も深夜のバスに乗るのは避けていると言うこと。トラクターは馬力が強いので荷台を引かせ、トラックの代わりに使われていると言うこと。
僕はその一つ一つを記憶に刻んでいく。この国で暮らしていく覚悟を決めた以上、一刻も早くこの国の文化になじまなければならい。環境に適応するのは比較的早いほうだが、海外、しかもネパールで暮らしていくのは僕が考えていた以上に大変なことも多いと思う。特に僕はネパール語が全く話せず、英語も少ししか話せないのだから・・・・。

ネパールの料理はおいしく戴くことができた。ネパール人は口を付けずにペットボトルの水を回し飲みしているのにビックリ。客が来てから米を炊き始めるという店のスタイルにも驚いた。(ネパールの田舎では当たり前らしい。)そして更に、その食べっぷりの見事さに驚いた。(日本人の倍以上の量をすごい勢いで食べていた。)
右手で食べるのは初めてだったが何とかなった。生水と生野菜は取り敢えず手を付けないことにする。少し衛生面で心配なところが多かったが、とりあえずはやっていけそうだ。

タンセンに到着したのは夜になった。途中かなり無茶な飛ばし方をしていて心配になったが、深夜の道は危険なため敢えて飛ばしたのかもしれない。ホテルは満室だったので町の有力者の家に泊めてもらうことになった。ネパール人は深夜突然の訪問にも全く嫌な顔をしない。本当におおらかである。この日僕は初めてのネパールに戸惑いながらもぐっすりと眠ることができた。

2010年4月22日木曜日

ネパールへの旅

航空機のチケットは21日でしかとれなかったので、20日は成田近くのゲストハウスAZUREに一泊することにした。サービスはそれほど良くは無かったが、成田空港に近いことと安いことから、早朝出発の飛行機に搭乗する人には便利かもしれない。
http://www.azure-guesthouse.com/JP.htm
僕の荷物重量は、預ける手荷物28kg+手荷物7㎏と中国国際航空に無料で持ち込める最大クラスの荷物を持っていたため、移動にはかなり苦労した。空港までは自力で持ち込んだが、空港内ではカートを海外での移動にはタクシーを使うことにした。


成田空港では利用する航空会社によってターミナルが異なっているので、ゲストハウスのスタッフに教えてもらった第2ターミナルに向かうが、スタッフがAir ChinaとChina Airを勘違いしていたらしく、第1ターミナルと判明。あわてて無料送迎バスを使って第1ターミナルに向かう。
航空会社毎の荷物制限と搭乗ターミナルは事前に自分でインターネット使って確認することをお勧めする。

第1ターミナルの搭乗手続きの際、アイスランド噴火の影響で空港に足止めされていた外国人達が抗議行動を起こし、搭乗手続きが大幅に遅れていた。もう数日間ホテルに足止めされ、毎朝空港まで通っているのに搭乗できないことに憤りを感じてのことだった。警察の空港警備隊が出てきたのでおとなしく引き下がったが、結局飛行機は2時間遅れの出発となった。出発に際し、フライトが遅れた説明も謝罪もなく、説明は中国語がメインで英語の補足が少しだけ。正直なところ、海外旅行初心者には格安チケットでの一人旅は厳しいなと感じた。

ネパールには直行便がないので、中国の成都経由便をeチケットでとった。成都経由はチケットにも記載されているが、北京でトランジットすることは当日チケットを受け取る際、初めて知らされた。
入国審査も北京で受けることとなった。(中国での入国審査は最初に到着した空港で行われるらしい。)正直、この入国審査も中国語がわからない僕にはきつかった。
海外の空港で訳が分からなくった時の必殺技を一つ。ホワイトボードに「日本語の分かる方、助けてください」と書き、多くの人が見える場所に掲げればよいのだ。日本でとったチケットならまず旅慣れた日本人の同乗者が居るはずである。かなり恥ずかしいが、心強い旅の同行者を得られる。今回はこれで乗り切った。
タクシーを捕まえるときも、行き先の住所と料金を書いておけばぼったくられることも少ない。ただし、向こうから話しかけてくる外国人は信用しない方が良い。騙されはしなかったが、怪しい人をたくさん見かけた。
成都ではタクシーでSim's Cozyゲストハウスに向かう。ネット上での評判が良かったのでここに決めたが。ここは当たりだった。現地スタッフや長期滞在で仕事を探していた日本人と楽しい一時を過ごせた。明朝早く出発するので今日はここまで。はう~~疲れたよ(^^;)

2010年4月21日水曜日

渡航準備

ネパールで学校を創りたいと思い立って、1年あまり情報収集と準備の期間がかかった。すべての情報を記載することは到底できないが、ネパールで生活あるいはNGO活動をするに当たっての準備と参考になる情報を掲載しておく。

NGO-JICAジャパン・デスク(ネパール)
http://www.jica.go.jp/japandesk/nepal/index.html

海外移住情報
http://www.interq.or.jp/tokyo/ystation/

ネパール半移住の勧め
http://homepage3.nifty.com/earthbound/

準備活動で一番優先順位が高かったのは、どのNGOと協力関係を取り付けるかの調査と折衝である。正直、言葉の通じない外国で、学校を創って教師になりたいなど、自分一人では無理。
今回僕が所属するNGOに現地理事として迎えてもらえたのは僥倖と言うより他はない。実際には色々な不満や衝突もあったのだが、素直に感謝している。僕の本名や所属するNGOは現地情報に詳しい人であれば一目瞭然であるが、ここでは一応伏せておく。


多くの人は海外でボランティア活動をする際、最も必要な技能に語学力をあげるのでは無いだろうか?僕自身も、語学力は極めて大切だと思う。しかし、今回ボランティアを行うに当たって僕はネパール語習得をあきらめた。僕の年齢ではしゃれにならないほど時間がかかるからである。自分でネパール語を習得するより通訳を雇った方が現実的だと考えたからである。日常生活の最低レベルは旅の指さし会話と英語でやりくりし、複雑な会話はNGOに2名いる通訳にお願いすることにする。発音等の問題でどうしても意思疎通ができないための筆談用にホワイトボード(シート)とマジックも持って行く。

電子機器は現地では高性能なものが手に入りにくく価格も高いため、日本から持って行く。携帯電話はSIMロックを外した第三世代携帯が現地で使えるという情報を得たので、SOFTBANKのプリペイド携帯を購入し、YahooオークションでSIMロック解除の業者に依頼する。SIMロック解除は携帯のソフトを書き換えることから一部機能に支障が出るということだが、とりあえず試してみることにした。日本では携帯メールの機能に支障が出たが、現地でSMSが使えれば問題なしと割り切る。
http://onlineshop.mb.softbank.jp/ols/html/model/index_prepaid.html

ノートパソコンとビデオカメラとデジカメも今回用に購入した。また、変圧器と変換プラグセットも買ってゆく。

海外への送金手段についてはスルガ銀行のVISAデビットカードが便利との情報を得るが、手続きに公共料金領収証が必要になるため間に合わず(前回分は捨ててしまった)、CITIBANKを使うことにする。意外と時間がかかるので、遅くとも1ヶ月前には手続きを終わらせるつもりで当たった方が良い。

手数料を節約して便利に海外送金する方法
http://kaigaisokin.seesaa.net/category/6329228-1.html

日本の事務所や知人との電話にはSKYPEが便利そうだったので、ヘッドセットを購入しインストールしておく。ついでに日本国内固定電話かけ放題の月額プラン(695円)に加入。
http://www.skype.com/intl/ja/

航空チケットの手配はマンション売却の契約確定後すぐに手続きをとったが、引き渡しまでの期間が3週間しかなかったので、ぎりぎりだった。遅くとも1ヶ月前。できれば2ヶ月以上前に購入しておくことをお勧めする。

僕が準備に1年あまりもかかってしまったのは、僕の理想とする教育をネパールの現実に沿った形で実現可能なプランにまとめるためだ。調査を進め思案を巡らせるにつれ、教育の方針や内容についてもかなり変わっているが、おおよそ自分で納得できるレベルまで煮詰めた。内容については今後このブログで紹介していきたい。

2010年4月20日火曜日

ネパールへの片道切符

ネパールでNGOの現地理事を引き受けることになり、日本を離れることとなった。NGOの理事といっても給料はない。それどころか、旅費やビサ、衣食住等の滞在費を含め、すべて自腹だ。日本のNGOは寄付金や政府の助成金のみで運営しており、資金的に苦しいところが多い。そのため、現地スタッフの給与はともかく、日本人スタッフの人件費を支払うと寄付金の大半が人件費ということになりかねない。よって、小規模でまじめな活動をしている団体は無給のボランティアスタッフに支えられていることも多い。なぜ、そんな活動に参加するのですかとよく聞かれる。僕はとりあえず自分の夢を実現するためですと答えている。

僕の夢は、ネパールに身寄りのない子供たちの学校を創り、先生になることだ。僕は日本語しか話せないので、子供はネパール語と日本語そしてできれば英語を加えたマルチリンガルで育てたい。簡単なことではないが、幼児期からマルチリンガルの必要な環境に置かれた頭の柔らかい子供なら可能だと考えている。僕の目が届く範囲で、せいぜい十人弱の小さな学校を目標としている。なぜネパールなのかと問われると、僕は教員免許など持っておらず、日本では教師になる資格がない。そして、ネパールには身寄りが無く教育どころか食べるものさえ満足に与えられずに、困っている子供たちがいる。それならば、僕の理想の教育を実現するためにネパールに渡るのも、一つの生き方だと考えたからだ。

一年前、僕は人生に絶望していた。人間関係のトラブルから会社経営に失敗し、人間など信じる方が馬鹿だと考えていた。欲に目がくらんだ人間がいかに浅ましいかを嫌というほど見せつけられた。借金を抱えて倒産したわけでは無いので、いくらかの蓄えはあったが、経営に対する情熱は失っていた。端から見るとニートのような状態だったが、ただ、何もせずに自堕落な生活をしていたわけではない。どこかに自分を活かせる場所はないかと、懸命に模索していた。けれども自分が必要とされる場所は日本にはなく、僕など居なくとも日本の社会には何の支障もないのだと結論付けていた。

そんな折、ネパールで警察に弾圧されているチベッタンのブログを見かけた。それをきっかけにカースト制度や男尊女卑、人身売買や孤児達の実態を調べているうちに涙が止まらなくなった。自分にもまだこんな熱い気持ちが残っていたのだとわかり、ここで人生を投げ出すくらいなら、身寄りも将来への夢も失ってしまった子供たちのために生きてみるのも悪くはないと思ったのだ。

日本では報道されない中国の虐殺
http://www.youtube.com/watch?v=RwDG-L7P7Zo&NR=1
 女の子の人身売買(ネパール)/プラン・ジャパンhttp://www.youtube.com/user/planjapantv#p/u/10/wk86oUsT8Yo

自分でも青くさいと思う。しかし、日本で生きる目標を失い後進国に旅立つ人には比較的ありがちなパターンでは無いかと思う。この一年、ネパールの現状については自分なりに調査と分析を重ね、なんとかやっていけるのでは無いかと思えるだけの準備はした。むろんリスクは少なくはない。新宿にあったマンションは今日売却した。もう日本に帰る場所はない。どういう結末に至るかはまだわからないが、これからの足跡をブログという形で残してみたいと思う。僕同様にネパールへ旅立つ人が居れば、その役に立つ情報も載せていきたい。