ネパールNGOスタッフ学校設立に向けて

2012年1月25日水曜日

新事業の準備

いよいよネパールでの仕事として、NGO活動とトラベル・エージェンシーを始めることにした。NGO活動に関しては孤児を対象に日本語やIT技術を教える等、小規模で個人的な活動に留まる限り登記の必要は無い。ただ、外国人相手にガイドやサービスを行う仕事はTourism Board等の認可が必要なことから、まずはトラベルエージェンシーの会社登記をすることにした。僕はしばらく前から日本語学校を辞め、ネット等で事業の企画と下調べをしていたのだが、奥さんも1月末で日本語学校の仕事を辞め、新事業の準備にかかることとなった。

ネパールの法律では日本人の僕は会社をつくることも働くこともできない。(製造業等で投資金額が10万ドルを超える場合は外国人でも起業可能)そのため会社は奥さんの名義で設立し、僕は個人的に奥さんのサポートをすることとしたのだが・・・。
ネパールでビジネスを始めるという事は大変なことだと改めて理解する。やるべき事が日本のように本にまとめられている訳でもネットに細かく掲載されているわけでもないので、色々な人に聞きながら仕事を進める必要がある。日本のように役所の人が手続きを説明してくれるわけではない。会社設立等の手続きでは賄賂を要求されるし、断ると手続きに相当な時間がかかる。(一度賄賂を支払うと、今後何度も要求されると思い断ることにした)頼んだ仕事は期日どおりにやってくれない。おまけに品質はかなり酷い。もっとも価格は日本の数分の一なので文句を言う方がおかしいのかもしれない。僕は日本で会社を設立し経営していた事があるので、こういう手続きが必要だということは大体わかる。しかし、僕では言葉が通じないし賄賂等を断る事が難しくなるため、手続きはすべて奥さんにお願いした。

ネパールで事業を始めるには日本でやる以上に確認と根気と忍耐が必要になる。もっとも日本で事業を始める事がネパールより楽だという訳では無い。日本では事務所の設立等に桁違いの初期投資がかかるし、人件費等の運営費もしゃれにならない。何より、大企業が質の高いサービスを提供しているので新設企業は太刀打ちできない。その点ネパールは競業他社のレベルは低いし市場の隙間や今後の経済発展の余地がある。今回の手続きでは時間はかかったし色々と苦労をしたが(主に奥さんが)、良い勉強になったと思う。
今回作成したホームページ:
http://coope.jpn.org/

2011年10月30日日曜日

ネパールの親戚付き合い


ネパールではダサインに続きティハールと言う大きな祭日がありました。日本に住んでいる姉にネパールの親戚関係について教えて欲しいというメールがあり、その休みを使って等親図の作成にチャレンジしてみたのですが・・・。

奥さんの本当のお母さんは彼女が10歳の時に亡くなっていて、お父さんは再婚しています。お父さんの兄弟は4人、今のお母さんの兄弟は6人。それでもって本当のお母さんのお父さんは奥さんが二人いたようで(実の姉妹)、義母のお姉さんの子供が6人、義母の子供が5人・・・。
おまけにネパールでは目上の人は名前で呼ばずに間柄で呼ぶと言う事(ディディ:姉や年上の従姉妹、ビナジュー:ディディの夫)。その上近ごろは英語(ダディー、アンクル)で呼んでいることも結構あり・・・。従兄弟や甥・姪の数は?呼び方は?愛称は?本当の名前は?・・・。もう目茶苦茶(*^_^*)
奥さんも全員の顔と名前は覚えていません。写真も手元に無い人の方が多いです。実家でアルバムも見せてもらいましたが・・・。冗談みたいですが本当の話です。

なんとなく覚えているで仲良くやっていけるのがネパール人。そして、数多い親戚の中でもやはり特別に親しい人はいます。決して豊かとは言えないネパールの生活で、自分の生活を切り詰めてまで奥さんのことをかわいがってくれた人・助けてくれた人。ネパールでは家族や親戚の付き合いをとても大切にします。僕はそんな奥さんのことを大切に思ってはいるのですが・・・。

ネパールの親戚付き合いは結構大変です。そして文化の壁はやはり大きい。人間として誠実で思いやりのある人だと敬意を持つことはできるのですが、彼ら・彼女達の話題は日本で育った僕には関心が持てない。食事や健康等身の回りの話を何度も何度も繰り返されると、はっきり言ってとても困る。僕は最近ネパール語の勉強をしていない。その理由は、ネパール語が話せないことを親戚の人達との話の輪に入れない事の言い訳に使っているから・・・。

僕は奥さんのことをとても大切にしている。彼女が大切にし、そして彼女を大切に思ってくれている人達との人間関係を壊したくない。けれども僕たちのプライベートな生活は守りたいし、親戚とは有る程度の距離を置いて付き合いたい。ネパールでどうしてもやり遂げたい事がある僕にとって親戚付き合いはとても時間と神経を使う問題なのである。これから先の人生をネパールで過ごしていく上で僕はわがままなのだろうか?

2011年7月2日土曜日

ネパールの日本語学校

奥さんが教えている日本語学校での仕事にもようやく慣れてきた。日本語教師の資格や経験があるわけではないが、日本のように細かい規定があるわけではない。奥さんや他の先生たちの授業を参考にし、授業の予習と準備をしっかりするようにした。

生徒たちは二十歳前後で初級者レベルの人達が多い。僕はネパール語が話せないので中級者レベルのクラスを受け持つことになった。ネパールの日本語学校は初級の日本語検定を取って日本に留学したいと思っている生徒が多いため、中級以上の生徒は少ない。特に、最近は日本の景気が悪くなっているため、日本語を勉強する学生の数も減っている。
生徒は昼間働いている人達が多いので、早朝のクラスを選ぶ人が多い。中級クラスは数ヶ月程度しか日本語を勉強した事が無いはずなのに、日本語で進める授業によくついて来ている。ネパール人は日本語を含む外国語会話が得意な人が多い。漢字が苦手な人が多いので読み書きは苦手な人が多いものの、気持ちを日本語で伝えることについては驚くほど堪能な人が多い。ネパールに来て1年以上になるのに未だにネパール語が話せない僕は、ただ感心するばかりだ。


カトマンズは日本語を話せる人達が驚くほど多い。そして日本人に好感を持ってくれている人達も多い。それにはJICAやNGOの活動がネパールの社会で認めらているところが大きい。とは言うもののネパールで日本語を勉強する人の数は減ってきているし、日本語を生かせる仕事を探すことも困難だ。日本に留学し、仕事を見つける事ができる人達も経済的な余裕がある人達が大部分を占めている気がする。これからの日本とネパールの関係は厳しくなっていきそうな気がする。

2011年6月20日月曜日

日本語教師の仕事

ネパールで新しいビジネスを始めようと思っているのだが、なかなか思ったようにはいかない。ネパールでは人口の80%が農業に従事しているので、この国を良くする為には農業の効率化を進めなければいけない。そう考えてローテクでできる安価な水耕栽培の実験を始めてみたのだが、見事に失敗。水耕栽培用の道具は自作してみたのだが、水漏れが止められず、また一部の部品で耐久性のありそうなものが見つからずに挫折した。液肥の成分等を調べ化学的に合成してみたりもしたのだが、ネパールではコスト的に採算が取れない。自分の専門分野でも無いので他の事業の可能性を探すことにした。
自分自身の面倒も見られない人間が他人を助けることなどできるはずが無い。そう思ってネパールで出来る事を色々探してきたが、なかなかこれといったものが見つからない。自家醸造のお酒や納豆・もやし等の食材やそれらを使った料理を作ったりもしてみたが、その程度のことは既に他の日本人がやっている。最近はレストランやパン屋等が増えたが赤字の店がほとんだ。とてもじゃないが生活の基盤を作り、この国をより良く変えていく力にはならない。事業を始める場合はこれから成長する分野で独自性を持った内容にしなければならない。僕にはもう少し時間が必要なのかもしれない。

そんな事を考えていた折、奥さんが日本語を教えている学校で日本語教師をして欲しいという話が出てきた。はっきりいって日本語教師の仕事はお金にならない。授業の1コマが175ルピー。土日は休みで一日の授業は1~2コマ。(*^_^*)
しかし、カトマンズでの多くの仕事はこんなものだ。フルタイムで常勤の仕事をしている人は少数である。失業者の数は多く、働く意思はあるものの充分な仕事が無い人はもっと多い。僕自身は利子生活者のため無理に働く必要はないのだが、今後の活動のためには人間関係をつくっておく必要がある。また、教育の仕事に携わりたい僕にとって、何か得ることもあるだろうと思い、しばらく日本語教師をしてみることにした。

2011年5月25日水曜日

新しい生活


ネパールで結婚式をして一月余りが過ぎた。
当初心配したような大きなトラブルは無く、奥さんとは仲良く暮らしている。無論、生活習慣や文化の違いから来る意見の相違は枚挙にいとまがない。けれども結婚をし、生活を共にすることで初めてネパールの文化を実感できるようになったと思う。

ネパール人は信仰心が強い。それぞれの家には神棚があり、朝と夜の食事の前には神様に水と線香をささげ、お祈りをする。街にある店からも、朝は線香の煙が漂ってくる。家の門には神様の絵が飾ってある事が多い。

両親は仏教徒だったが、僕自身は宗教には特に思い入れが無い。よって結婚式や神様のお祈りも、その人が生まれた時から慣れ親しんできた文化だと思い、奥さんの自由にさせている。本当は宗教よりも自分なりの世界観や合理的な生活習慣を身につけて欲しいと思っているが、少なくとも当分の間はそれは望めないだろう。ただ、奥さんは鶏とヤギ以外の肉は食べないので、その辺りの食習慣だけは早く替えて欲しいなーと思っている。(あと、やたらと辛いものが好き。)

ネパール人の食事は朝と午後にカジャといわれる軽食、そして昼前と夕方にダルバートなどの食事を取る。僕達は朝にパンとチャー(紅茶)の軽食、昼前と夕方に日本風とネパール風の混ざった食事、午後はカジャを食べる事が多い。食器や調理器具、生活用品は結婚前に僕が使っていたものを使い続けているので生活は日本式に近い。彼女が日本語を話してくれることもあるので、食事以外の点では日本の生活とそれほど変わっていない。しかし、僕自身は結婚前と比べて・・・?

結婚すると生活のリズムや行動様式が結構変わる。相手の性格によるところも大きいだろう。僕は結婚するまで、家族に対してもこれほど誰かに打ち解けて生活したことは無かったように思う。ただ、二人でいると冗談やじゃれ合いで計画的、生産的な事が進まなくなる。こんなにバカな事ばかり続けていてはダメな人になってしまうと思うのだけれども・・・。

2011年4月26日火曜日

ネパールでの結婚


ネパールで新年を迎えた次の日、ようやく彼女との結婚式を挙げる事が出来た。僕が外国人で彼女との年齢も離れていたことから結婚に反対していた親戚も多かったのだが、結婚式には百人以上の人達が出席し楽しい雰囲気のもと行われた。。僕が外国人のため、ヒンディーの寺院で式を挙げることは出来なかったのだが、家の近くにあるパーティーパレスで結婚式を挙げ、その後パーティーパレスで披露宴?を行った。パーティーが進むと子供たちや女性たちが音楽に合わせて踊りだし、彼女や僕も一緒に踊ることとなった。ネパールの結婚式はオープンでちょっとした知り合い等でも気軽に参加しやすく、盛り上がると踊りだすことも少なくない。心配していた親戚の人達との関係もそれなりに打ち解け、受け入れてもらえたように感じる。結婚に反対していた親戚たちも、彼女のことを心配していただけで僕の事を嫌っているわけではない。結婚式の後はお祝いの電話も頻繁にかかって来て、挨拶等が大変だった。

ネパールでは結婚式の後、夫が妻の実家に泊まる儀式がある。恥ずかしい話だが、結婚するまで僕は彼女の家に一度も行った事がなかった。彼女が家に行くことを嫌がった為だが、この日は彼女の家族にたいそうもてなして貰った。確かに裕福な家ではなかったが、カトマンズ市内とは異なり自然がとても美しい場所で、家族の絆も深く、彼女がとても家族の人達に大切に育てられたのだと感じた。僕がネパール語をまだ話せないことから充分な会話は出来なかったのだが、その雰囲気は充分に感じ取れ、またこの人達ともっと打ち解けるためにネパール語を勉強しなければと思った。その後、彼女の生活を心配した兄と弟が僕たちの家に来てくれたのだが、楽しそうな彼女と家の様子を見て安心してくれたようだ。

それからようやく新婚旅行。最初はインドに行こうと言っていたのだが、この時期のインドはとにかく暑い。これからネパールでビジネスを始めるために必要な物を買いに行きたかったのだが、新婚旅行に仕事を持ち込むのもあんまりなので、今回は見送ることにした。僕はポカラにはNGOの関係で2回程来た事があったのだが、箱入り娘の彼女は今回始めて。飛行機を使っても良かったのだが、外国人はネパール人の3倍位のお金がかかるため、今回はバスを使った。しかし、バスにそれほど長く乗ったことのない彼女はバスに酔ってしまい大変だった。
ポカラは確かにきれいな町なのだが、ポカラの観光業に関わるネパール人は感じの悪い人が多い。外国人を見かけるとしつこく声をかけ、料金を吹っかけてくる人、一度決めた料金に文句をつけ料金を水増しする人。表面的な飾り付けのみに気を配り、客の立場に立ったサービスを全くしない人。こういう人達と関わると、せっかく自然の美しさに癒された心も後味の悪い物となる。レイクサイドの観光地はこういった人達が特に多い気がする。一方市街地から少し離れた農村部には今も人々の素朴な営みがある。ダムの下流では水場に人々が集い、水浴びや洗濯をしていた。ネパールの農村部に住む子供たちはどんな宝石よりもきらきらと輝く瞳で元気に遊んでいる。同じ人間であるはずなのに、どうしてこんな瞳をしているのだろうと不思議に思う事がある。いつの日か僕はこのように輝く瞳を持つ子供達と幸せな家庭をつくる事ができるのだろうか?

2011年1月10日月曜日

ネパールの情報化推進サイト

ネパールで現在一番力を入れなければならない開発案件は情報化だという意見がある。僕もこの意見に賛成である。海外からの資金援助はこの国を大きく発展させてきたが、同時に政治や官僚の腐敗を生み自立性を失わせた。海外からの資金援助で始められたプロジェクトが、そのプロジェクト期間のみ活動し終了と共に解散してしまう例は非常に多い。(最近では過去の反省から改善されてきている。)僕は資金援助ではなく情報化を支援する一個人としてインターネットの情報サイトを立ち上げる準備をしている。

情報サイトはWikiaを使い、最初はネパールでの生活情報や保健衛生知識、政治経済の基礎知識やビジネス情報を載せて行こうと考えている。そんなサイトは沢山在るではないかと言われればそのとおりである。ただ、個人のブログ等は沢山あっても、実際に有用な情報を集め必要な情報を検索できるサイトは無い。新聞に掲載される情報に関しても、政治屋の縄張り争い等どうしようもなく低レベルな記事がほとんどである。これでは国民の意識レベルは向上しない。最初は日本語のみの為、保健衛生や現地で手に入る食材や便利な品物等の買い物情報から、彼女にネパール語の翻訳をお願い出来るようになってからは生活をより豊かで便利に出来る情報を載せていきたい。

ネパールで無償のNGO活動というと大変な事をしているように聞こえるかもしれないが、実際にはそんなことは無い。500万ルピーをHimalayan Bankの一年定期預金に預ける際利子を交渉すれば年利11.5%になり、利子だけで生活していく事が出来る。仕事や生活の支援をしてくれるスタッフが必要なら日本語学校等を周れば月に1万ルピーもかからない。(僕の場合は今の彼女が無償で手伝ってくれた。)家電製品や家具なども日本に比べると品質やセンスに問題のある物が多いが、探せばそれなりに良い物が日本よりも遥かに安く手に入る。家賃などは月1万ルピーで夫婦二人でそれなりの生活ができる部屋が借りられる。食事等も良いレストランは探せばあるし、自炊をすれば日本と変わらない食事も出来る。日本では今時少ない素直でかわいい彼女と結婚も出来、ネパール人女性と結婚をすればビサの取得も問題はなくなる。きちんとした情報収集さえ出来れば、円高不況で大変な日本と異なり、ネパールでは結構楽な生活ができるのだ。

それは多くのネパール人にとっても言えることである。マイクロファイナンスで融資を受けビジネスを始めることもできるし、農業でもカトマンズでの卸売価格を知っていれば業者に買い叩かれることも無い。灌漑や施肥を導入し市場価値の高い商品作物を育てれば生産性と収入は大幅に増える。基礎教育を普及させ情報を活用出来るようになればネパールも豊かな国になれる可能性を持っている。

最初は日本語から始める観光やNGO向けのカトマンズに限定したサイトであっても、将来的にはネパール語や英語等でネパール全土を豊かに出来る情報化支援を目標としたい。奨学金制度はネパール全土でかなりの件数に上っているが、学歴はあっても地方の貧困者は良い仕事に就く事が出来ない。そんな人達に村の情報化を推進するためのインターネットとパソコンとプリンターとデジカメを貸し与えるのだ。村の情報化推進要員として、インターネットカフェを開き、農作物の価格動向や商品作物のニーズ、農業技術や国内・国際情勢を伝えていければ村の知識水準と生活水準は向上する。NGOと連携したプロジェクトについても導入した技術内容や品種を他の村でも利用できるように公開しておけばそのプロジェクトの有効性は高まるし、今後は高い成果を出し情報を公開している村を優先的にプロジェクトの提携先に選ぶようにすればNGOのプロジェクトに対するモチベーションもあがる。これからは貧しい者に援助を与えるのではなく、貧しくとも努力をして成果を出した者に技術支援と融資や投資を行うように変えていかなければネパールは良くならないと思う。そして、その為には情報基盤の整備が必要とされているのである。