ネパールNGOスタッフ学校設立に向けて

2010年8月27日金曜日

自分探しの旅

ネパールにいると、個性的な人間に出会う確率が高いように思える。世界や社会に対して自分に出来ることをしたいという人。自分の知らない世界を体験することで見識を高めようとする人。ヒマラヤを初めとする美しい自然を愛し、安らぎを求め、あるいは自分の壁に挑戦をする人。そして、何かの壁にぶつかり、あるいは自分の生きる意味を求め、自分探しの旅を続ける人。

僕自身は日本という社会の中で自分の生きる意味を見出す事ができず、残りの人生を教育にかけてみようと考え、ネパールに訪れた人間だ。ある意味、僕自身、自分探しの旅を続けた結果ネパールという地に辿り着いたとも言える。
しかし僕は、未知の国々や文化を知ることによって自分の本質や人生の意味を知る事が出来るとは考えていない。人間という生き物を知ること、自分の本質を知ることは、地球や人類そして自分自身の歴史の中で人間同士の営みを客観的に分析することにより可能になるのでは無いかと思う。それは自分の望む幻想であってはならない。現実を直視する覚悟を持って、初めて己の進むべき道は見えてくるのだと思う。

僕は人間とは何か。魂とは何か。生きるということの意味。これまでの人生で自分なりの答えは見つけたと考えている。

僕は人間は所詮動物だと考えている。うまい物を食べたいと思うことも、安全で快適な生活をしたいと望むことも、きれいになりたい、強くなりたいと思うこと、魅力的な異性に好感をもたれたいと思うことも動物としての本能である。それらは動物として当たり前の欲求であるが、人間は社会的な動物であるが故に本能が命じる欲求のみにしたがっていたのでは社会はうまく機能しない。
人間は技術を生み出し言葉を話す事で高度な協力を実現した。それにより他の動物より優位に立つ事ができ、文字を生み出し社会を作ることで、子孫に文化を伝え、発展する事ができたのだ。
「我思うゆえに我あり」 当時高校生だった自分はデカルトの言葉を深く考えることも無く受け入れていた。しかし我とは一体何なのか?
人間は言語を介さずに高度な論理的思考を展開する事ができない。そして、言語・技術・文化は数百億もの先人達が何万年もの歳月をかけ研鑽し、練磨し、発展させてきたものだ。その基盤を無くして決して人は高度な論理的思考を為し得ない。自我とは、両親や教師、多くの書物や人間との交流の中で生まれた、ある種の集合意識といってよい。人間とは、想いや文化を、そして魂を受け継ぐ動物であると言う事ができる。しかし、同じ経験や教育を受けても人は同じ人間にはならない。それらをどう受け止め、どう解釈するかによって為り人は違ってくる。その人間としての在り方の形成に最も大きな影響を与えるのが幼児期の環境であり、そして人としてあり方に対する自覚と矜持だと思う。

僕は人間は動物であると思う。しかし、ただの動物のまま終わってはいけないと思う。人は想いを文化を、そして魂を受け継ぐ動物であるのだから。
人は一人では何も大した事はできない。そして、人と人の出会いなど単なる偶然に過ぎない。しかし、人の想いはただの偶然を運命に変える事ができる。僕は、己の想像・想い・そして意思が未来を紡ぐ事をも可能とするのだと信じたい。
「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」 これは維新の志士を導いた一人とされる吉田松陰の辞世の句である。
世界の歴史を客観的に見て、江戸時代末期の日本は欧米の植民地になる可能性が極めて高かった。そして、世界のほとんどの国は帝国主義に染まった欧米列強の植民地と化し、その世界は現在のそれと大きく異なった歴史をたどった可能性は極めて高い。その歴史を覆したのが、坂本龍馬や吉田松陰を初めとする維新の志士達である。(この歴史をここで述べるには長すぎるので知らない人は自分で調べてください。)

今、人間社会は未曾有の危機にある。グローバル経済はシステムとしての破綻を来たし、人類は未だ進むべき未来を思い描けていない。人口爆発はようやく停滞の兆しを見せたが、気候大変動は避けられないであろう。これからますます激しくなる格差社会は社会的弱者を破滅に追いやる。一体何億、何十億の人達が犠牲になるのであろうか?後進国で餓死・病死している人達の数は、第一次・第二次世界大戦の犠牲者と比較にならないほどの人数に達している。世界はこれからもこのような社会的弱者から目をそらし続けるのであろうか?

人の意思は時として世界をも大きく動かす。その流れのきっかけを与えるのは一個人の想いであることも少なくは無いが、そのきっかけを社会の潮流に変えるのは当たり前の日常を当たり前に生きる人々の意思である。世界への関心と生きる意志こそがこの世界を良い流れへと導く。どうか無関心というあきらめのもとに、生きる意志を失わないでもらいたい。